多度大社
たどたいしゃ

三重県桑名市多度町多度1681

本宮祭神:天津彦根命
あまつひこねのみこと

別宮祭神:天目一箇命
あめのまひとつのみこと

延喜式伊勢國桑名郡 多度神社 名神大

社格:伊勢国二宮旧国幣大社

東名阪の桑名I.C.から国道258を北上し、県道26を西進、多度大社の看板が見えたら右折して北上すると、突き当たりに鎮座。

境内入り口に鉾立社(ほこたてしゃ)という小さな祠がある。ここから階段の参道があるのだが、階段の左側は、急な坂道になっており、上部はガケになっている。ここで、祭りの時に上げ馬神事≠ニいう行事が行われる。馬に乗ったまま、このガケを駆け上がるらしい。なんとも無謀な祭りではある。階段を上がると正面に新宮社、左に藤波社と白馬舎があり、本当に白い馬がいる。右側の休憩所の裏には一拳社(ひとこぶししゃ)という境内社がある。参拝した日は酷暑日だったので、休憩所でカキ氷を食べてから参拝。さらに参道を進むと、右側に落葉川という小川が流れていて、途中に手を清める場所の御手洗(みたらし)がある。左側に招魂社・美御前社と境内社が続き、於葺門(おぶきもん)を通ると左に神明社。小さな橋を渡って左に本宮・多度神社、右に別宮・一目連(いちもくれん)神社。本宮の左は小さな滝になっている。本宮と別宮の間の岩からは湧き水が涌いている。注連縄が張られているので、神聖視されているのだろう。本宮の前には御供石(おそなえいし)という磐座がある。別宮の本殿には扉が無いという。なぜ?社殿は本宮・別宮共に神明造

本宮・多度神社と別宮・一目連神社(いちもくれんじんじゃ)を合わせて多度大社と呼ぶ。多度山を神体山とする古い信仰形態を残しているので、かなり古い時代から祭祀されていたはず。由緒書きによると、雄略天皇の時代に、現在の地に社殿が造られたらしい。主祭神の天津彦根命は天照大御神の子、別宮の祭神・天目一箇命は天津彦根命の子。延喜式では名神大社に列せられている。伊勢国で名神大社は、当社と阿射加神社三座のみ。なぜか伊勢神宮関係は、全てただの大社で、名神大社ではない。当社は伊勢国二宮とされているが、一宮とされている椿大神社(つばきおおかみやしろ)・都波岐(つばき)神社は、どちらも延喜式では小社なので、当社が本来は一宮的存在だったかもしれない。この地方一帯を支配した豪族・桑名首(くわなのおびと)は、主祭神の天津彦根命を祖神としているので、氏神だったのだろう。

お伊勢参りが盛んになると、当社は天照大神の子を祭神としているため、北伊勢大神宮と呼ばれたらしい。確かに、江戸方面から伊勢参りをする時は、ほぼルート上に鎮座しているので、参拝者も多かっただろう。

多度山を登る途中に愛宕神社があり、山頂に高峰神社がある。山頂からは木曾三川がよく見える。眺望はいいのだが、登る道は非常に狭く、3ナンバー車はやめといた方がいい。


境内略図(クリックすると拡大します)


一の鳥居?


鉾立社(ほこたてしゃ)


参道


階段横の上げ馬神事が行われる坂

新宮社・右が休憩所

藤波社と白馬舎

白馬

藤波社


一拳社(ひとこぶししゃ)


招魂社


参道

御手洗

美御前社(うつくしごぜんしゃ)

於葺門(おぶきもん)

神明社

左が本宮・右が別宮


本宮・多度神社


別宮・一目連(いちもくれん)神社


本宮前の磐座(御供石)

本宮と別宮の間の岩から湧き水

多度登山道途中の愛宕社

山頂の高峰神社

多度山頂から木曾三川(手前から揖斐川・長良川・木曽川)

 当社の歴史は古く、太古は標高四〇三メートルの多度山全体を神体山として仰いでいましたが、五世紀の後半、雄略天皇の御代になって御社殿がはじめて現在のところに建てられました。奈良時代末期には満願禅師が多度神の託宣を受け、天平宝字七年(七六三)に我国で三番目に古い神宮寺が建立され、後に国分寺に準ずる扱いをうけ、寺院七〇房・僧侶三〇〇余輩を数える大寺院となりました。
 当社は『延喜式』巻九神名帳に桑名郡十五座のうち「多度神社名神大」とみえ、いわゆる延喜式内名神大社であり、後一条天皇の御代には東海道六社のうちの一社にも数えられました。また、南北朝時代の暦応年間には多度祭の上げ馬・流鏑馬
(やぶさめ)の神事も始まったと伝えられ、御神徳はいよいよ広大無辺となり、皇室からも度々幣帛が献られています。
 本宮『多度神社』の御祭神「天津彦根命」は、天照大御神と須佐之男命との御誓約
(うけひ)による五男三女の御子神の第三皇子です。御祭神の関係から「北伊勢大神宮」と称され、「お伊勢まいらばお多度もかけよ、お多度かけねば片まいり」とも謡われていて、庶民の伊勢参宮の折には当社へも必ず参拝したことがうかがわれます。『新撰姓氏録』に「桑名首(くわなのおびと)、天津彦根の男(こ)、天久之比乃命(あめのくしひのみこと)の後なり」とあるように、北伊勢地方を支配した豪族が氏神としてお祀りした神様で、産業開発、商工業繁栄の神と仰がれています。
 別宮『一目連神社』の御祭神「天目一箇命」は『古語拾遺』により伊勢忌部氏の祖神であることが知られ、天照大御神が天の岩戸にお隠れになった際に刀、斧を作り活躍された神様で、日本金属工業(製鉄・金作り)の守護神です。さらに両宮親子の神々力を協せて雨や風を支配され、生きとし生けるものの命の源となる農業・水産を守護し、諸難を滅し、諸願を成就される神様です。又、一目連神社の神殿が御扉を設けない珍しい造りになっているのは当社の故実の上で見逃せない一例です。
 明治六年には県社、大正四年には国幣大社という高い社格が授けられ、御社頭も益々栄え近年では健康で幸せな日々をお守り下さるとの信仰があり、近畿東海はもとより、東京、大阪方面からも多数参拝があります。

神社発行の由緒書きより抜粋

inserted by FC2 system