多度大社
たどたいしゃ
本宮祭神:天津彦根命
あまつひこねのみこと
別宮祭神:天目一箇命
あめのまひとつのみこと
延喜式:伊勢國桑名郡 多度神社 名神大
東名阪の桑名I.C.から国道258を北上し、県道26を西進、多度大社の看板が見えたら右折して北上すると、突き当たりに鎮座。
境内入り口に鉾立社(ほこたてしゃ)という小さな祠がある。ここから階段の参道があるのだが、階段の左側は、急な坂道になっており、上部はガケになっている。ここで、祭りの時に上げ馬神事≠ニいう行事が行われる。馬に乗ったまま、このガケを駆け上がるらしい。なんとも無謀な祭りではある。階段を上がると正面に新宮社、左に藤波社と白馬舎があり、本当に白い馬がいる。右側の休憩所の裏には一拳社(ひとこぶししゃ)という境内社がある。参拝した日は酷暑日だったので、休憩所でカキ氷を食べてから参拝。さらに参道を進むと、右側に落葉川という小川が流れていて、途中に手を清める場所の御手洗(みたらし)がある。左側に招魂社・美御前社と境内社が続き、於葺門(おぶきもん)を通ると左に神明社。小さな橋を渡って左に本宮・多度神社、右に別宮・一目連(いちもくれん)神社。本宮の左は小さな滝になっている。本宮と別宮の間の岩からは湧き水が涌いている。注連縄が張られているので、神聖視されているのだろう。本宮の前には御供石(おそなえいし)という磐座がある。別宮の本殿には扉が無いという。なぜ?社殿は本宮・別宮共に神明造。
本宮・多度神社と別宮・一目連神社(いちもくれんじんじゃ)を合わせて多度大社と呼ぶ。多度山を神体山とする古い信仰形態を残しているので、かなり古い時代から祭祀されていたはず。由緒書きによると、雄略天皇の時代に、現在の地に社殿が造られたらしい。主祭神の天津彦根命は天照大御神の子、別宮の祭神・天目一箇命は天津彦根命の子。延喜式では名神大社に列せられている。伊勢国で名神大社は、当社と阿射加神社三座のみ。なぜか伊勢神宮関係は、全てただの大社で、名神大社ではない。当社は伊勢国二宮とされているが、一宮とされている椿大神社(つばきおおかみやしろ)・都波岐(つばき)神社は、どちらも延喜式では小社なので、当社が本来は一宮的存在だったかもしれない。この地方一帯を支配した豪族・桑名首(くわなのおびと)は、主祭神の天津彦根命を祖神としているので、氏神だったのだろう。
お伊勢参りが盛んになると、当社は天照大神の子を祭神としているため、北伊勢大神宮と呼ばれたらしい。確かに、江戸方面から伊勢参りをする時は、ほぼルート上に鎮座しているので、参拝者も多かっただろう。
多度山を登る途中に愛宕神社があり、山頂に高峰神社がある。山頂からは木曾三川がよく見える。眺望はいいのだが、登る道は非常に狭く、3ナンバー車はやめといた方がいい。
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階段横の上げ馬神事が行われる坂 |
新宮社・右が休憩所 |
藤波社と白馬舎 |
白馬 |
藤波社 |
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参道 |
御手洗 |
美御前社(うつくしごぜんしゃ) |
於葺門(おぶきもん) |
神明社 |
左が本宮・右が別宮 |
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本宮前の磐座(御供石) |
本宮と別宮の間の岩から湧き水 |
多度登山道途中の愛宕社 |
山頂の高峰神社 |
多度山頂から木曾三川(手前から揖斐川・長良川・木曽川) |
当社の歴史は古く、太古は標高四〇三メートルの多度山全体を神体山として仰いでいましたが、五世紀の後半、雄略天皇の御代になって御社殿がはじめて現在のところに建てられました。奈良時代末期には満願禅師が多度神の託宣を受け、天平宝字七年(七六三)に我国で三番目に古い神宮寺が建立され、後に国分寺に準ずる扱いをうけ、寺院七〇房・僧侶三〇〇余輩を数える大寺院となりました。 神社発行の由緒書きより抜粋 |