皇大神宮(内宮)
こうたいじんぐう(ないくう)

三重県伊勢市宇治館町1

主祭神:天照坐皇大御神
あまてらしますすめおおみかみ

相殿:手力男神
たじからおのかみ

萬幡豊秋津姫命
よろずはたとよあきつひめのみこと

延喜式:伊勢國度會郡 大神宮三座 相殿坐神二座 並大 預月次新嘗等祭
式内の別宮 荒祭宮:伊勢國度會郡 荒祭宮 大 月次新嘗

伊勢自動車道の伊勢西I.C.を下りてすぐに右折する。宇治浦田町交差点をまた右折してしばらくすると、そこらじゅうに駐車場がある。おかげ横丁という門前町は賑わっている。伊勢うどんがオススメ!

宇治橋を渡ると広大な神苑の中の参道を歩く。玉砂利が深く、結構歩きにくい。火除橋と一の鳥居を過ぎると、右手に御手洗場があり、五十鈴川の清流で手を清める。御手洗場から参道に戻る途中に瀧祭神たきまつりのかみという磐座がある。二の鳥居を過ぎると右手に風日祈宮橋かざひのみのみやばしがある。まるで宇治橋の縮小版みたい。この橋を渡ると、別宮の風日祈宮かざひのみのみやの脇に出る。元寇の時に神風を吹かせた神として別宮に昇格したらしい。

参道に戻ると、徐々に杉の巨木が多くなり、神秘的な雰囲気が漂う。参道終点を左に行くと階段があり、上に御正宮ごしょうぐうが鎮座している。この階段からは撮影禁止なので、階段下から撮影するしかない。正殿は幾重にも巡らされた垣に囲まれていて、正面からは全く見えない。社殿は唯一神明造と呼ばれる最古の形式。弥生時代の高床式倉庫から発展したと考えられている。御正宮の右手に新御敷地がある。20年に一度行われる式年遷宮で、新しい社殿が建てられる場所。

御正宮の奥に、内宮の第一別宮である荒祭宮あらまつりのみやがある。途中、御稲御蔵みしねのみくら・外弊殿げへいでんという、まるで弥生時代の高床式倉庫みたいな建物がある。荒祭宮は天照大神の荒御魂あらみたまを祀っていて、御正宮に準じた祭祀が行われる。荒祭宮の参道の途中、御正宮の正殿が横からチラッと見える場所がある。

伊勢神宮といえば、云わずと知れた、最高格式を誇る神社。皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)を正宮とし、それぞれに別宮・摂社・末社・所管社があり、全部で125社あるらしい。その総称を一般的に伊勢神宮と呼ぶが、正式には単に“神宮”という。ちなみに、内宮・外宮はそれぞれ、“ないぐう”・“げぐう”ではなく、“ないくう”・“げくう”と濁らずに読むのが正しい。ところが、御正宮は“ごしょうぐう”、別宮は“べつぐう”と普通に濁って読む。ややこしいのだ。内宮には十所の別宮があり、内宮の敷地内には荒祭宮と風日祈宮の2宮が鎮座し、他の別宮は離れて鎮座している。最も遠いのは志摩の伊雑宮。125社全部を記載するとキリがないので、取りあえず内宮の別宮十所とその祭神だけ記載しておく。

宮号 祭神
荒祭宮
あらまつりのみや
天照坐皇大御神荒御魂
あまてらしますすめおおみかみのあらみたま
月読宮
つきよみのみや
月読尊
つきよみのみこと
月読荒御魂宮
つきよみのあらみたまのみや
月読尊荒御魂
つきよみのみことのあらみたま
伊佐奈岐宮
いざなぎのみや
伊弉諾尊
いざなぎのみこと
伊佐奈弥宮
いざなみのみや
伊弉冉尊
いざなみのみこと
瀧原宮
たきはらのみや
天照皇大御神御魂
あまてらしますすめおおみかみのみたま
瀧原竝宮
たきはらならびのみや
天照皇大御神御魂
あまてらしますすめおおみかみのみたま
伊雑宮
いざわのみや
天照皇大御神御魂
あまてらしますすめおおみかみのみたま
風日祈宮
かざひのみのみや
級長津彦命・級長戸辺命
しなつひこのみこと・しなとべのみこと
倭姫宮
やまとひめのみや
倭姫命
やまとひめのみこと

内宮に祀られる天照大御神は天皇家の祖神として、また、日本神話における太陽神・最高神として有名だが、伊勢神宮が整備されたのは、以外にもそれほど古くはなく、天武・持統天皇の時代と考えられている。伝承によると、第10代崇神天皇の時代に、それまで宮中で祀られていた天照大神と倭大国魂大神やまとおおくにたまのおおかみを、畏れ多いということで、宮中から移して別々に祀った。これらは、天照大御神が大神神社の摂社・檜原神社で、倭大国魂大神が天理の大和神社だといわれている。その後、第11代垂仁天皇の代に、何故か天照大御神だけが、丹後や伊賀など各地を転々として、最後に現在の五十鈴川の畔に鎮座したという。どうして皇祖神という、天皇家にとって最も大切であるはずの神が都を追い出され、タライ回しのように転々とした挙句、遠く離れた伊勢の地に鎮まったのか?しかも、天皇家のお膝元である大和には、天照大神を祀るこれといった神社はない。なぜ大和ではなく伊勢なのか?大きな謎がある。

さらに不思議なことに、持統天皇が参拝して以来、、明治天皇まで天皇親拝は全くなかった。天皇家の祖神であるにも拘らず、実に不思議なことだ。これだけが理由ではないが、天照大御神が太陽神・皇祖神とされたこと自体が、天武・持統朝以降の話で、それ以前は違った神が太陽神・皇祖神とされていたのではないかとう説もある。確かに、関西で社名に“天照”と付く神社の多くが、天火明命あめのほあかりのみことを祭神としていること、天孫降臨神話において、高天原の主宰神的な存在は高皇産霊尊たかみむすびのみことのように読めることなどから考えて、天武朝以前は太陽神も皇祖神も、天照大御神ではなかった可能性が高いと思う。一部には、邪馬台国の卑弥呼を神格化したのが天照大御神のモデルという説を唱えている研究者もいる。日本書紀では、天照大神の別名として、大日孁貴尊おおひるめのむちのみことという名が記載されているが、“おお”と“むち”は尊称なので、本来の名は“ひるめ”だったと思われる。そうすると、身体不備だったため、捨てられてしまったという“水蛭子ひるこ”という神が、“ひるめ”と男女ペアとなる男性の太陽神だったのかも知れない。


境内案内図(クリックすると拡大します)


宇治橋

宇治橋から五十鈴川

宇治橋

広い神苑

日除橋と一の鳥居

御手洗場

御手洗場

瀧祭神たきまつりのかみ

瀧祭神

瀧祭神

風日祈宮橋かざひのみのみやばし

風日祈宮の脇に出る

風日祈宮の正面

杉の巨木が多い参道

階段の上に御正宮

荒垣御門

新御敷地

唯一神明造の正殿

御稲御蔵みしねのみくら

外弊殿げへいでん

荒祭宮

荒祭宮

天照大御神は皇室の御祖神であり 歴代天皇が厚くご崇敬になられています また私たちの総氏神でもあります。
 約二千年前の崇神天皇の御代に皇居をお出になり 各地をめぐられたのち この五十鈴川のほとりにお鎮まりになりました。
 二十年ごとに神殿をお建て替えする式年遷宮は千三百年続けられてきました。
 第六十二回式年遷宮は平成二十五年に行われる予定です。

宇治橋脇の案内板より抜粋

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