粒坐天照神社
いいぼにますあまてらすじんじゃ

兵庫県たつの市龍野町日山463

祭神:天照国照彦火明命
(あまてるくてるひこほあかりのみこと)

延喜式:播磨國揖保郡 粒坐天照神社 名神大

手延べ素麺揖保の糸≠ナ有名な龍野の揖保川沿いにある古い市街地に参道入り口があり、周辺の道は非常に狭い。神社背後の山には公園や国民宿舎がある。

2つの鳥居をくぐると階段があり、その途中に神門がある。階段を登りきると拝殿と本殿。本殿左右に多くの境内社がある。境内右奥に、さらに上に行く階段があり、瑜伽神社という境内社がある。かなり広い境内で境内社も多く、さすが式内の名神大社だ。伊和神社・海神社と並ぶ播磨三大社といわれたというのも納得できる。

社名は天照神社だが、伊勢神宮の天照大神とは異なり、火明命を祭神としている。ここに限らず、関西では天照と名の付く神社の多くは火明命を祭神としている。女神の天照大神が皇祖神とされる以前の太陽神だった可能性が高い。火明命は天照大神の孫で饒速日命(にぎはやひのみこと)と同一とされることが多いが、播磨国風土記では大汝命(オオナムヂ=大国主)の子として登場し、かなりの暴れん坊として描かれている。船で火明命と共に播磨灘にやってきた大汝命は、その暴れっぷりに手を焼き、火明命に山から水を汲んで来るように命じた。汲み終わって火明命が帰ってきたら大汝命はすでに船出した後だった。だまされて捨てられたことに気付いた火明命は怒り狂って暴風雨を巻き起こし、大汝命の船を難破させてしまったという。他の書物には見られない播磨独自の伝承だ。

社伝では、火明命の使者から稲の種(これをイイボ≠ニ呼んだ)を授かり、植えたところ大豊作となったため、当地を粒(イイボ)と呼ぶようになったという。揖保郡・揖保川などの地名起源説話である。しかし、播磨風土記では全く違う起源説話を伝えている。風土記では、葦原志挙乎命(あしはらのしこおのみこと=大国主)と天日槍命(あめのひぼこのみこと)が争い、葦原志挙乎命が先に国を占拠するため、丘に登って飯をたべたところ、口から米粒が落ちたことから粒丘(いいぼおか)と呼ぶようになったとしている。

大国主(葦原志挙乎命)と火明命の両方に揖保の地名起源説話があることや、風土記の大国主(大汝命)と火明命の仲が悪かったという説話を考えると、大国主を奉祭する氏族と火明命を奉祭する氏族が、揖保郡の支配権を争ったのかもしれない。


鳥居と社号標


神門


拝殿

本殿

社殿遠景

境内社

瑜伽神社参道

瑜伽神社社殿

 延喜式に揖保郡七座の一つと記載され、宍粟郡一宮町の伊和神社、垂水の海神社とともに播磨三大社の一つです。
 神社縁起によると、推古天皇二年(五九四)、当地の有力者が神託を受け、的場山(通称・台山)の頂に祠を建て農業の守護神天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)を祀ったのが始まりです。その時一粒の稲の種と水田を授かり、これを耕作したところ大豊作となり、一粒万倍したという。以後この土地はイイボ(粒、揖保、飯穂)の郡と呼ばれる穀倉地帯となりました。室町時代の嘉吉の乱(一四四一)の兵火で社殿が焼失、揖西町小神に遷座しました。天正九年(一五八一)龍野城主となった蜂須賀小六正勝が白山(当時は楯山村と呼んだ)の現在地へ遷座、続いて城主となった福島正則が社殿を造営しました。寛文十二年(一六七二)に信州から城主として着任した脇坂家の藩主も崇敬厚く、神域が拡大され、数多くの境内末社を勧請合祀しました。平成六年には神社創立千四百年祭を執行しています。
 神社は再三の火災に遭い、現在の神殿、弊殿、祝詞殿は昭和三十七年(一九六二)に、拝殿、社務所は同五十六年に建立されました。
 二月二十四、五日は菅原道真を祀る菅原神社の祭礼(天神祭)、七月十四、五日は一年の健康を祈念する輪抜け祭、十月には秋祭があってにぎわいます。氏子は龍野、揖西、揖保川三町の三千三百世帯です。

(境内案内板より)

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