國津比古命神社・櫛玉比賣命神社

くにつひこのみことじんじゃ・くしたまひめのみことじんじゃ

愛媛県松山市八反地106

國津比古命神社主祭神:天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊
あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと

配祀:宇麻志麻治命・物部阿佐利命・譽田別命
うましまじのみこと・もののべのあさりのみこと・ほんだわけのみこと

延喜式:伊豫國風早郡 國津比古命神社


櫛玉比賣命神社
主祭神:天道姫命
あめのみちひめのみこと

配祀:御炊屋姫命
みかしきやひめのみこと

延喜式:伊豫國風早郡 櫛玉比賣命神社

瀬戸内しまなみ海道の、四国側の終点・今治I.C.から、国道196を松山方面へ。国道が海岸線を離れ、市街地に入るとバイパスになる。バイパスと県道17の交差点を左折し、そのまま突き当りまで直進すると正面に鎮座。

境内入口の社号標は、國津比古命神社のものだけが建てられている。参道の階段を登ると、左が國津比古命神社で右が櫛玉比賣命神社。國津比古命神社の参道には、立派な神門がある。神門の左には神楽殿、右には境内社がある。更に階段を登ると社殿がある。立派な拝殿の奥に、神明造の本殿。拝殿の左に、小さな境内社がある。社殿が建っているのは古墳の上らしい。

國津比古命神社の反対側に櫛玉比賣命神社の参道があり、ここに社号標がある。参道から國津比古命神社がよく見える。参道の左に境内社。拝殿はそこそこ立派だが、本殿は小振り。

風早郡は、物部氏の一族・風早氏が国造を務めたとされる地で、その初代が配祀の物部阿佐利で、その祖神を祀る。当社の創建も、物部阿佐利によると伝えられている。物部氏の祖・饒速日尊にぎはやひのみことを祀るのが國津比古命神社で、その妃・天道姫命と御炊屋姫命を祀るのが櫛玉比賣命神社。

櫛玉比賣命神社は、社名と祭神名が合ってないように思えるが、饒速日尊は別名を櫛玉比古くしたまひこともいうので、その妃を櫛玉比賣と呼ぶのはおかしくない。ただ、2人の妃を、同じ神社で祀るのは微妙な気もする。同一の境内に、2社の式内社が鎮座しているが、昔は櫛玉比賣命神社は別の場所にあったらしい。


鳥居


参道


神門

神門左の神楽殿

神門右の境内社

階段の上に社殿

拝殿

拝殿内部

本殿

拝殿左の境内社

國津比古命神社の反対側に櫛玉比賣命神社参道

櫛玉比賣命神社参道から見た國津比古命神社境内

櫛玉比賣命神社参道

参道沿いの境内社

拝殿

拝殿内部

本殿

拝殿右の境内社

 國津比古命神社のいわれ
国津比古命神社は古墳の上にお祭りされています。昔、風早の郷に魂を感じた人たちがいました。その人たちはこの魂を国魂として素朴にお祭りされていました。
やがて、日本の国をひとつにまとめるときがきました。大和朝廷は氏姓制度のなかに国造などを定めました。
風早の郷には物部阿佐利という方があてられ、この方は、もともと風早にまつられていた国魂を敬い、なおかつ、
自分の祖先である神様をも合わせてあまつりし、櫛玉饒速日命神社と呼ばれるようになりました。後に、物部阿佐利命をいっしょにおまつりし、国津比古命神社と元の社号になりました。頭日八幡宮
かぐひはちまんぐうと呼ばれた時期もありましたが、享保年間(一七一六〜一七三六)に、元の社名にもどりました。物部氏・風早氏の氏神として発展し、河野家の崇拝厚く、戦火により焼失した社殿が再建されました。

 櫛玉比賣命神社のいわれ
国津比古命神社の主神であるクシダマニギハヤヒノミコトの后神(奥様)をおまつりしているのが櫛玉比売命神社です。
櫛玉は、ニギハヤヒノミコトを形容することばです。その方の比売神ですから「櫛玉の比売の命の神社」です。
風早の先人が国津比古命神社にこの郷の国魂をまつり、のちに、物部阿佐利命がこの国魂も敬い、合わせて祖神で
あるニギハヤヒノミコトをおまつりしたおり、現在地より南方の小山に后神をおまつりしたと考えられます。
社殿によると、寛永年間(一六一一〜一六二九)に前方後円墳のそばに遷されました。このことから考えると、動座祭からの一連の神事は最大限ここまでさかのぼることができます。櫛玉比売命神社は「祓座大明神
はらいにますだいみょうじん」ともいわれました。
これは当社が国津比古命神社の祓いをつかさどったなごりだと考えられます。動座祭に限り、櫛玉比売命神社から始まるのもこのためです。
享保年間、元の社名にもどりました。特殊神事として動座祭のあと「宵の明星」があります。

境内の案内板より抜粋

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