為那都比古神社
いなつひこじんじゃ

大阪府箕面市石丸2-10-1..

主祭神:為那都比古大神・為那都比売大神
いなつひこおおかみ・いなつひめおおかみ

合祀:天照皇大神・応神天皇・大山咋神・木花咲耶姫命・天児屋根命・火之迦具土神・琴平大神・市杵島姫命・速素盞嗚命

延喜式攝津國豊嶋郡 爲那都比古神社二座

国道171の今宮交差点から北上し、第4中学の北側に鎮座。

最近、鳥居が立て直されるとともに、駐車場が拡大された。境内には木々が少なく明るい雰囲気。神門をくぐると右手に英霊奉安殿。本殿右隣には天満宮。本殿は覆屋の中でよく見えない。

今は合祀されている為那都比売大神を祀った大婦天王社(別名:大宮神社・為那都比売神社)が鎮座していた場所の近くに、医王岩という巨大な岩石が有り、信仰の対象となっていた。由緒書きでは元から現在地に鎮座していたとなっているが、大婦天王社のすぐ近くに磐座(いわくら)があるということは、本来はこちらに鎮座していたのでは。

式内社の爲那都比古神社二座に比定されているが、他に池田市の伊居太神社の末社の猪名津彦神社という説もある。付近の如意谷(にょいだに)からは近畿式銅鐸が発掘されており、医王岩という磐座があることを考えると、式内社であろうとなかろうと、かなり古い時代から祭祀がなされていたのだろう。箕面市・池田市・豊中市・吹田市と兵庫県側の川西市・伊丹市・尼崎市は古代、為奈県(いなのあがた)といわれていたが、当地はその東の端っこにあたる。先代旧事本紀には為奈部等の祖天津赤占(あまつあかうら)が、物部氏の祖先である饒速日尊(にぎはやひのみこと)のお供として高天原から降臨したとなっている。この為奈部(いなべ)氏が祀った神社かもしれない。ただ、東漢氏(やまとのあやし)の祖、阿知使主(あちのおみ)を祀ったという伝承もあり、伊居太神社でも同じような伝承がある。伊居太神社は秦氏の神社であり、当社も秦氏の神社である可能性もある。

医王岩は3段に分かれた大岩で、1番上の岩は今にも落ちてきそうだ。岩から大己貴・少彦名の2神が生まれたという、なんとも壮大な伝承があるらしい。


医王岩表側


如意谷銅鐸


鳥居

神門

境内

英霊奉安殿

社号碑

拝殿


拝殿内部


天満宮

 「日本書紀」仁徳天皇三十八年の条に猪名県が見えるように、大化改新以前は旧豊島郡・川辺郡(猪名川流域の東は吹田市北部、西は尼崎市北部に至る地域)を一体化したひとつの行政単位であり、これを古くから支配していたのが、為那都比古の一族である。
 吉備津彦、伊勢津彦、阿蘇都彦など、地名を負ったヒコというのは、原始的な姓であって三世紀から五世紀にかけて、そのあたりの首長に与えられた一種の称号として用いられ、これを称した豪族たちは、のちに国造や県主などの長官の官職についたものが多かった。猪名県が成立したとき、その首長である県主には為那都比古の後裔にあたるものが任ぜられ、彼らは氏族の祖神として為那都比古神社をお祀りしたのである。
 また一方、応神天皇の時阿知使主は、その子の都加使主〈管理人注:つかのおみ〉と十七県の人々を引き連れて、日本に渡来し倭漢氏〈同注:東漢氏と同じ、やまとのあやし〉の先祖となった。(応神紀二十年九月条)応神三十七年には、天皇の命令で呉国から工女(ぬいめ)四人を迎え猪名港(今の唐船ヶ渕)に機殿を建て布帛を織り機織裁縫の技術をわが国に伝える等したが、反正天皇の四年(四〇九)に帰幽するが、猪名県での功績により比古の称号を与えられ翌年に当社に合祀されたと伝えられている。
 往昔、当社は、この鎮座地に為那都比古大神・為那都比売大神の夫婦神二座が同殿にお祀りされていたが、寛平年間(八八九〜八九八)に別れて別殿になり、白島字土居の地に為那都比売大神をお祀りし為那都比古神社(大宮)と称した。しかし、この神社を含む萱野地方の神社十社とその境内社五社が、国の指導により明治四十年(一九〇七)に当社に合祀され現在にいたっている。
 天正年間(一五七三〜一五八二)織田信長は、高山右近に命じ摂津一円の神社を破壊するにおよび織田信長の信仰厚い「牛頭天王」を祀っていると称し、その難を免れたのである。
 このように当社は、長い歴史と由緒を持つ攝津の国を代表する古社で古くから縁結びの神、土地守護の神として崇敬の念深く通称「萱野の大宮さん」とよばれている。

(神社発行の由緒書きより)

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