賀茂別雷神社
かもわけいかずちじんじゃ
祭神:賀茂別雷神
かもわけいかづちのかみ
延喜式:山城國愛宕郡 賀茂別雷神社 亦若雷 名神大 月次相嘗新嘗
下鴨神社から賀茂川沿いに北西に行くと、右手に境内入り口がある。社前は、社家の家が立ち並ぶ古い町並みが残っている。
境内は非常に広い。一の鳥居から参道を行くと、両側は芝生の広場が広がっている。二の鳥居の前に、神馬舎があり、白い神馬がいる。二の鳥居を通ると、奇麗な三角形に盛られた砂が二つある。立砂(たてすな)といって、神奈備山である神山(こうやま)をかたどったもので、神籬(ひもろぎ)の一種らしい。その背後の建物が細殿で、右手には橋殿がある。御手洗川という小川を渡ると楼門がある。楼門前には岩上(がんじょう)という岩場があって、葵祭りのときに、宮司が祝詞をあげる場所。これは磐座の一種かも。隣には式内社で第一摂社の片山御子神社と、末社の須波神社。楼門から中に入ると拝殿があり、その前には棚尾社。国宝で流造の本殿は撮影禁止。楼門を出て左に行くと、小川沿いに川尾社、伊勢神宮遥拝所があり、その奥に摂社の新宮神社と末社の山尾社。橋殿まで戻って、ならの小川♂いに行くと、岩の上にあるその名も岩本社がある。更に行くと式内で摂社の賀茂山口神社。右側には曲水の宴が行われる渉渓園。ここから坂を上ると二葉姫稲荷神社。ならの小川沿いに行くと摂社・奈良神社があり、さらに川沿いに2つの末社がある。
一般的には上賀茂神社と呼ばれる。下鴨神社と共に山城国一宮。本来は賀茂氏の一族が奉祭する神社だったが、平安京遷都によって、皇城鎮護の社とされ、朝廷が直接祭祀するようになり、賀茂氏は神官家となった。下鴨神社と併せて賀茂社と総称される。有名な葵祭りも2社合同で行われる。
祭神の賀茂別雷神は、下鴨神社の祭神・玉依媛(たまよりひめ)の子と伝えられる。その名の通り雷の神様だ。山城国風土記逸文では、玉依媛が川を流れてきた矢を拾って床の上に置いておくと、なぜか妊娠して子が生れた。それが賀茂別雷神であるという。
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二の鳥居 |
境内 |
立砂と細殿 |
橋殿 |
岩上(がんじょう) |
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橋本社 |
川尾社 |
伊勢神宮遥拝所 |
摂社・新宮神社 |
楼門 |
拝殿 |
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式内摂社・賀茂山口神社 |
渉渓園と賀茂山口神社 |
渉渓園と賀茂山口神社 |
渉渓園の紅葉 |
二葉姫稲荷神社参道 |
二葉姫稲荷神社 |
摂社・奈良神社 |
ならの小川と末社2社 |
神代の昔、本社の北北西にある秀峰神山(こうやま)に御降臨になり、天武天皇の御代(六七八)、現在の社殿の基が造営された。本殿御鎮座以後も広く庶民の信仰を集め、皇室の御崇敬は歴代にわたり、行幸啓は枚挙にいとまあらず、国家の重大事には必ず奉幣、御祈願があった。嵯峨天皇は御杖代(みつえしろ)として皇女有智子(うちこ)内親王を斎王と定め、その制度は以来三十五代、約四百年間続いた。『延喜式』では名神大社に列し、のち山城国一ノ宮として尊崇せられた。又摂関賀茂詣、武家社参相次ぎ、特に特に徳川家は家紋の三ツ葉葵が、当神社の神紋二葉葵に関係があるところから、特別の信心を寄せた。明治以後終戦まで、官幣大社として伊勢の神宮に次ぐ、全国神社の筆頭に位した。 神社発行の由緒書きより抜粋 |